Hot springs deep inside Japan

奥田屋
湯屋の霊泉
今から450年もの昔、岐阜に住む武士の奥田孫左衛門は、長いこと胃腸を病み、お城勤めも思うに任せない程でした。
ある夜孫左衛門は日頃信心している薬師如来から夢のお告げを受けました。それは「東の方山深い里に桃の林があり、その傍らに泉が湧いている。それを飲み体を浸しなさい……やがて病の苦しみは消えましょう」夢から醒めた孫左衛門は早速"桃の木と泉"を尋ねての旅に出ました。
しかし、東といえば飛騨の方角ですが地名がわからず会う人ごとに桃の木・泉を聞きますが一向に手掛りは得られず
-山また山の辛い旅の明け暮れ-病の身には応えます。
そんなある日、重い足を引き摺って立ち寄ったの飛騨小坂は湯屋の郷。村の人は親切でやつれ果てた孫左衛門から旅の理由を聞くと、一緒に泉探しをしてくれました。幾日かたって川を望む崖の辺りに枝いっぱいに花をつけた桃の老木、その傍から赤渋色の水が渾々と湧いているのが見付かりました。孫左衛門は水を手で掬い一口、また一口……喉を鳴らして飲みます。
例えようもない不思議な味の水、休にもかけました」飲む・浴びるを繰り返すうちに、まるで生気が五体を巡るような爽快な気分になりました。「ありがたいこれぞまさしくお薬師さまの霊泉!!」
それからまだ十日も経っていないのに、孫左衛門は足どりも軽く飛騨路を西に向っていました。岐阜に戻り、お城勤めを辞め、湯屋に住むこととした孫左衛門は村の人たちと図って、病める人々のためにお堂を建て、そこに薬師如来をお祀りしました。湯屋薬師堂です。やがて、霊泉と薬師堂は噂となり、病気平癒を願う人が訪れるようになりました。
孫左衛門の半生は湯屋の薬師堂と霊泉の"お守"にあったといえます。湯屋の霊泉が発見され、薬師堂が建てられてから一六〇年ほど経った一六六〇年ころ、病に苦しむ江戸の上級武士岡部俊愈(としまさ)は、名医・奇薬・名湯と八方手を尽くしたが効果なく病勢は増すばかりなす術もない失意の俊愈にとって、唯一心の支えは薬師如来の信仰でした。
あるときまどろむ俊愈は薬師如来から歌を示されました。それは、
・やまの奥、世にたぐいなく出る湯を
 人の知らざることぞ悲しき
・くめや汲め汲むみ薬のもとつかさ
 そなわりてある味の五つを
・しなしなに五つの味は人のみか
 心ありても無きもかわらず
の三首でした。(歌の写しは奥田屋の玄関先の碑に)
何気なくその歌を書く-、俊愈の目がとまったのは、それぞれの歌の上と下の文字〈やくし〉と、〈をさか〉でした。
”これは小坂の地に薬師如来ゆかりの温泉があるとのお告げに違いない”思い込んだ俊愈の小坂探しが始まりました……が、やくしとおさかだけでは見当もつかず、暗中模索の日々……
その日も温泉が多いと聞く飛騨の縁者を尋ね廻ってみましたが無駄足、空しい気分で家に向かう、その途中ふと見掛けた旅の僧に声をかけてみました。
返ってきたのは"飛騨の小坂に薬師堂があって、
その近<の霊泉を頼って諸国から病人が集まる"の話し、俊愈はこれ偏に日頃信
心する薬師如来のお慈悲と喜び、旅に立ちます。
東海道から美濃、飛騨路やっとの思いで小坂湯屋、着いたその日から霊泉を幾度も口にし、ゆったり湯に浸った。効能は道中で耳にした評判どおり、あの難病が日一日と癒え二月足らずですっかり元気になりました。
江戸の岡部俊愈が快癒して、二十年から三十年後の間に、美濃の修行僧円空はたびたび小坂を訪れ、鉈ばつりの微笑仏を刻んでは傑作の数々を寺や神社におさめ、里の人に与えています。湯屋の薬師堂にも薬師如来と日光・月光菩薩の薬師三尊を祀りました。
「湯屋温泉の開祖奥田屋」
室町時代の中期、奥田屋の祖先奥田孫左衛門は薬師如来のお加護で日本一の霊泉に巡り合い病苦から逃れました。その幸せを広く世の人にもと願い、薬師如来を祀り、霊泉を守りました。その心は子から孫へと受け継がれ、江戸時代に入ると、長期の湯治者のために、屋内に霊泉を引き自炊の宿にしました……奥田屋の創業でございます。
それから凡そ三四〇年、代も重ねて現在は二十八代目、湯屋温泉のなかでは最も古い暖れんの宿、自然体の素朴な旅館でございます。
創業の頃に書かれた岡部俊愈の「温泉湯元開源由来記」(俊愈の記)は奥田屋の家宝として代々伝えられています。